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東京地方裁判所 昭和35年(行)21号 判決 1961年11月09日

原告 権田鎮雄

被告 国

訴訟代理人 樋口哲夫 外三名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

原告は、「被告が別紙目録土地表示欄記載の土地につき昭和二三年七月二日付でした買収処分および同日付で同目録売渡の相手方欄記載の者に対してそれぞれした売渡処分は、いずれも無効であることを確認する。」との判決を求め、

被告指定代理人は、主文と同旨の判決を求めた。

第二当事者の主張

一、原告は、請求の原因および被告の答弁に対する反論として、次のように述べた。

(一)  別紙目録土地の表示欄記載の各土地(以下本件農地という。)は、もと原告の所有であつたところ、被告は、自作農創設特別措置法(以下自創法という。)第三条の規定により、昭和二三年七月二日付をもつてこれを買収し、さらに同法の規定により同日付をもつてこれらの土地を別紙目録売渡の相手方欄記載の者にそれぞれ売り渡した。

(二)  しかしながら、右自創法に基づく農地買収および売渡は、次に述べる理由により憲法に違反し、無効である。

(1) 自創法による農地の強制買収は、公共のために農地を用いるものということはできないから、憲法第二九条第三項の規定に違反する。

自創法は、第一条において、「この法律は、耕作者の地位を安定し、その労働の成果を公正に享受させるため自作農を急速且つ広汎に創設し、又土地の農業上の利用を増進し、以て農業生産力の発展と農村における民主的傾向の促進を図ることを目的とする」と定めて、同法に規定する農地所有権の強制的剥奪の目的を明らかにしているが、しかし同法に定める農地買収および売渡による自作農創設は、農業生産力の増進となるものではなく、また耕作者の地位の安定および農村の民主化は、前記憲法第二九条第三項にいう「公共のため」というには当らない。まず第一の点についていえば、一定面積の農地からの生産量は、これに投ぜられる化学肥料の量と質、農業労働力の量、河川改修工事の施行等の要因、なかんづく化学肥料のいかんによつて支配せられるのであつて、当該農地が自作地であるか小作地であるかはこれに格別の影響をもたらさないのである。このことは、農林省の米穀生産統計表および日本農業基礎統計によつて示されているように、自作農創設以前と以後において自作小作の反当収益がほぼ同じであることからも明らかである。もつとも、後者の統計によれば、年平均四升五合だけ自作地の方が小作地より多くの収穫量をあげているが、この微量の差額は、小作料の支出がないためそれだけ営農資金が豊富になつたことによるのであつて、これだけの目的のためなら、あえて自作農創設の如き手段をとらずとも、営農資金の貸付により容易にその目的を達しうるわけであるから、農地の買収の如き強制的な財産権剥奪を理由づけるには足りない。次に第二の点についていえば、耕作者の地位の安定ということは、単に小作農という国民の一部階層のみの利益をはかることに外ならず、それ自体は国民全体すなわち公共のためでないことは明らかである。また農村の民主化ということも、それが地主と小作人との法律上の地位の平等を意味するなら、自作農創設以前においても両者は法の下に平等であつたわけであり、地主と小作人との間には賃貸借関係が存するのみで、それ以外に人的支配関係、れい属、奉仕の関係はなかつたのであるから、自作農創設は右の意味における民主化とはなんらの関係がないし、またそれが農村社会においては従来地主がつよい勢力を有し、事実上その中心をなしていた事態を是正することを意味するなら、およそいかなる社会においても、財力や智力を有する者がかかる支配力を有するのが通例であつて、ひとり農村に限られるわけではないし、また実際においても、買収を受けた地主の八三パーセントは一町歩以下の自作農と同じ地位の微少地主であるから、農村においてこれらの地主が支配的地位を占め、小作人がれい属的状態にあつたということはありえない。のみならず、当時においては小作料は小作料統制令によつて金納に改められ、その額も制限せられていて、一般物価の値上りと対比すればただと同然であつたし、地主による土地引上げも法的に制限せられていたので、小作農は実質的には自作農と同様であり、あえて自作農創設の必要をみなかつたのである。

(2) 農地買収の対価は憲法第二九条第三項にいわゆる正当な補償に当らないから、かかる対価による買収は右の規定に違反する。

憲法第二九条第三項にいう正当な補償とは、完全な補償を意味するものと解すべきである。そう解さないと、憲法が私有財産制を認め、財産権の不可侵を保障した意味が失われることとなる。それ故、農地を強制的に買収しうるためには、これによつてこうむる地主の損失に対する完全な補償が伴わなければならない。しかるに原告の本件農地買収の対価は、別紙目録(一)の田については金七六〇円八〇銭、(二)の田については金八八五円六〇銭、(三)の畑については金四七三円七六銭であるが、これは次に述べるとおり、とうてい完全な補償額とはいいえない。

(イ) 物の所有権の強制的収用に対する完全な補償とは、理論上はその物と同一の物を買いうる額と右収用によつてこうむつたそれ以外の損害額との合計でなければならないが、その他の損害額はその算出が困難であり、具体的場合によつて異なるので、ここでは仮に前者のみを正当な補償額として考えるに、本件買収当時においては、農地につき統制価格が設けられ、自由取引価格が存在しなかつたので、農地につき右の意味における完全な補償額を直接算出することは不可能であるから、かかる場合においては、いちおう自由取引の可能であつた当時における農地の価格と他の平均物価(物価指数)との割合を基準として、買収当時における平均物価の騰貴の割合を右農地価格に乗じて算出せられた価格をもつてこれに当るとするほかはない。もとより正当な補償額はこれに尽きるものでないことは前述のとおりであるが、少なくとも右価格を下るものであつてはならない。しかるところ、総理府統計局戦前基準消費者物価指数表によれば、一般物価指数は昭和一一年を基準一とすれば昭和二三年は一八九であり、日本勧業銀行農地価格調べによれば、昭和一一年における田畑の全国平均価格は、一反それぞれ四三五円と二五九円であるから、右価格をそれぞれ一八九倍して得た八二、二一五円と四八、九五一円がそれぞれ昭和二三年当時における経済事情に適合した田および畑の平均的価格であり、これに基づいて本件農地の価格を算出すれば(田の標準賃貸価格は一九円〇一銭、畑のそれは九円三三銭であるから、これと本件農地の個別的賃貸価格との比例計算によつて個別的な農地価格を算出することができる。)、別紙目録(一)の田は八二、二六一円、(二)の田は九五、七三三円、(三)の畑は四一、二七八円となるる。

それ故前記買収対価は完全な補償額にはるかに満たず、正当な補償といいえないことは明らかである。

(ロ) 被告は、農地の買収対価につき、その農地の自作収益を資本還元してこれを定めたことをもつて合理的に定められた正当な補償額であると主張しているが、その基礎とされた統制米価自体が合理的に決定されたものでなく、一般物価に比し著しく低く定められたきわめて不合理なものであり、またほんらい一時的なものにすぎず、現に本件買収後急速に引上げられているような統制米価を基礎としては正しい自作収益価格を算出することはできないし、また右自作収益価格の決定は、当時の一般的現象ともいうべき耕作農家の農作物の闇売りによる収益を全く考慮していない点において正しいものということはできない。のみならず、農地買収対価が定められた昭和二一年当時に比し本件買収当時は一般物価が三八、三倍に騰貴しているのに、昭和二一年当時に定められた対価をそのまま据え置いている点においても不当である。

(ハ) 自創法第六条は、田畑それぞれの賃貸価格の四〇倍ないし四八倍の価格をもつて買収対価としているが、右賃貸価格そのものが物価の変動に伴いこれに均衡した額に改訂せらるべきものであるのに、かかる改訂を施されない物価水準の低くかつた戦前のままの賃貸価格を基準としてこれに上記倍数を乗じ、これによつて得られた価額をそのまま買収対価とすることは、とうてい正当な補償額ということができない。

(ニ) およそ物はすべて生産費を要するが、その生産費以下に下落することはない。これを農地についてみれば、山の買入代金と開墾費とが農地を作る費用価格であるが、昭和二三年においては、山素地一反全国平均九六六円、開墾費一二、〇〇〇円合計金一二、九六六円が一反の畑を作る費用価格であるから、農地価格もそれを下ることはありえないわけである。この点からも本件買収対価がいかに低廉であり、とうてい正当な補償額といえないものであることが明らかである。

(ホ) 被告は、昭和二八年一二月二三日の最高裁判所大法廷判決を援用して、本件買収対価が正当な補償に当ると主張しているが、右判決の理論は、次の点において誤つている。すなわち同判決によれば、農地は自創法施行以前からすでにその自由処分を制限せられ、またその用途を耕作以外の目的に変更することをも制限せられ、小作料は金納に改められて一定の額に据え置かれ、農地の価格そのものも特定の基準に統制せられており、地主の農地所有権の内容は使用収益または処分の権利を著しく制限せられ、法律によつてその価格を統制されるに及んでほとんど市場価格を生ずる余地なきに至つているのであつて、かかる農地所有権の性質の変化がとりもなおさず憲法第二九条第二項にいう公共の福祉に適合するように定められた農地所有権の内容にほかならず、また農地の公定または統制価格は公共の福祉のために設けられたものであるから、当時における自由な取引によつて生ずる他の物価と比べてこれに適合しなくても、正当な補償であることを失わないというのであるが、この理論は、農地所有権の内容が上記のような法律上の制限により著しくその価値を喪失するに至つた状態を前提とし、これを是認する建前に立つものであつて、この前提が失われれば、右の理論そのものも妥当性を失うこととならざるをえないのである。ところで、右の如き農地所有権に対する法律上の制限たるや、金納小作料を物価の八六分の一農地の公定価格を物価の一一八分の一という著しく低い額に据え置き、かつ、地主の土地引上げに対して禁止的制限を加えたもので、一方的に土地所有者の権利を制限し、実質的にその内容を無価値なものとし、これによる利益をすべて耕作者に与えたのであつて、それ自体公共の福祉に適合せず、憲法第二九条第二項に違反するのみならず、地主と小作人との間に不当な差別的取扱を認めるものであつて、憲法第一四条にも違反するものである。仮にかかる制限的立法が公共のためといいうるとしても、少なくともそれは農地所有権の一部を公共のために使用したものにほかならないから、これに対しては当然正当な補償が支払わるべきであるのに、かかる支払はなされておらない。このように、上記の如き法律による農地所有権に対する各種の制限はそれ自体憲法に違反し無効であるから、かかる制限を有効であることを前提として、農地の公定価格による対価を正当な補償とすることが誤りであることは明らかである。

(3) 被告は、原告の右(2)の主張は、結局買収対価の不服を理由として買収処分の効力を争うに帰するが、かかる不服については自創法第一四条の買収対価増額の訴により救済を求むべく、これを理由として買収処分の効力そのものを争うことは許されないと主張するが、正当な補償を伴わない権利剥奪処分はそれ自体憲法に違反し無効であるというべく、補償と処分とを切り離して事を論ずることは妥当でない。けだしもし被告の主張の如くんば、買収対価増額の訴はその出訴期間を一ケ月と定められているから、右期間経過後においてはもはや正当な補償を受けえないこととなるが、かかる結果を是認することは憲法第二九条第三項の趣旨に反するものといわなければならないからである。

(4) 不当に安い農地の買収および売渡は、地主と小作農との間に不公正な差別待週をするものであるのみならず、小作農の間にもかかる差別待遇を認めるものであるから、憲法第一四条の規定に違反する。

地主は、いずれも生命を削る劇しい労働と極度の節約とによつて農地を買い入れたか、あるいは山林を買い受けて汗を流してこれを開拓し、農地所有者となつたものであり、これに対して小作農は地主の血と汗の結晶である農地を借り受けて自己の生活のために耕作していたにすぎない。しかも小作農たちは、戦争中他の同胞が犠牲を払い、苦しんでいた当時において、これら同胞の食糧難に乗じて食糧の闇売りをし、莫大な利益を得ていたのである。しかるに自創法は、前記のように没収に等しい低廉な対価をもつて地主からその農地所有権を取り上げ、これを右と同じ価格をもつて小作農に売り渡すことを定めた。これは、地主と小作農の間に不当な差別待遇をするものというべく、憲法第一四条の規定する法の前の平等の原則に違反するものであることは明らかである。のみならず、同法による農地の売渡は、無償同様の安い値段による売渡であるから、小作農全体に対して平等な売渡がなさるべきであるにかかわらず、原則として各自にその賃借耕作していただけを売り渡すこととしたため、ある者は三町歩近くの農地の売渡を受けながら、他の者は一畝歩しか売り渡されなかつたし、また三反歩以下の小作農には売り渡されないこととされていたのである。この点においても、同法は憲法第一四条の規定に違反するものといわなければならない。

二、被告指定代理人は、答弁として、次のように述べた。

(一)  被告が原告主張の日自創法第三条の規定により本件農地を買取し、これを原告主張の者らに売り渡したことは認める。

(二)  自創法の規定に基づく農地買収および売渡が憲法第二九条第三項および第一四条の各規定に違反するものでないことは、最高裁判所大法廷昭和二八年一二月二三日判決(最高裁判所民事判例集七巻一三号一五二三頁)、同昭和二九年一一月一〇日判決(最高裁判所民事判例集八巻一一号二〇三四頁)等の判例によりすでに確定されているところであるが、以下において原告の主張に対し若干の反駁を加える。

(1) 原告は、自創法に基づく自作農創設(農地等の買収および売渡はそのための手段である。)は、農業生産力の増進に寄与するものでもなく、また農村の民主化に役立つわけでもなく、単に小作農の利益をはかるにすぎないから、憲法第二九条第三項の「公共のため」に当らないと主張する。しかしながら、小作地が自作地化された場合、これによつて当該農地の耕作者の地位は安定し、同時に労働の成果を公正に亨受しうることとなるのは自明の理であり、そうなれば耕作者の勤労意欲が増加し、その結果として農業生産力の増進が期待されるのみならず、自作地化されたことに伴つて増加する所得はそのまま農業生産面に還元投入されることとなり、すぐれた農耕技術の導入を可能ならしめ、ひいては農業生産力のいつそうの増進が期待されるのである。もとより農業生産力の発展は、小作地の自作地化のみによつて可能とされるものでないことは当然であり、原告の主張する化学肥料の増進はもちろん、その他品種の改良、土地改良、農業技術の進歩、経営方法の適正化、気象状況等農業経営上有利な諸条件の具備にまつところが多いけれども、自作農創設は前述のように農業生産力発展のための基礎的条件を形成するものであつて、自創法の目的もまたここに存するのである。現に自作農創設前後の反当収益の増減を検討してみると、別表(一)のとおり反収の漸次増加の事実を認めることができるのであり、さらに各年度の反当収益が諸種の人的自然的条件の複合の結果で、かなり偶然的要素の介入しうることを考慮して、五年毎に区分し、各五年間の平均収益を算出してその比率を調べてみてもその結果は別表(二)のとおりで、自作農創設後の反当収益の増加の事実が証明されるのである。

また、自作農創設が農村の民主化に役立たない旨の原告の主張は、従来のわが国の農業を特徴づけた地主的土地所有制度、ないしわが国の農地賃貸借関係の特質(借家関係などと異なり農地の少ないわが国では、農地の賃貸借関係は、生産手段としてより生存手段としての色彩がつよく、そこでは単なる賃貸借関係以上の人的関係に変質する。旧法下の地主小作人の関係はまさにこの姿であつた。)をまつたく無視するか、あるいはことさらにこれに眼を蔽つた形式論というほかはない。問題は農地の賃貸借関係それ自体にあるのではなく、実質的具体的な地主の性質、地主小作人間の人的関係にあるのである。従来わが国における地主小作人間の人的関係が非民主的であり、地域的に上下の支配、れい属、ないし庇護、奉仕の関係にあつたこと、あるいはまた地主中心の村落機構を通じて地主が小作人を支配し、非近代的な地主小作人関係を形成していたことは公知の事実である。自創法は、かかる地主至上の非民主的な地主小作関係ないし地主的村落秩序を打破し、もつて農村の民主的傾向促進の基礎を形成することを企図したものであり、自作農創設の結果農村民主化の成果が挙つたことは、ひろく一般の承認するところである。

原告はさらに、当時すでに小作料の金納化、その額の制限地主による土地引上げの制限等の立法措置によつて小作人の地位は事実上自作農と同様であつたから、さらにこれに加えて地主から農地所有権を剥奪し、これを小作人に与えるというような強力な措置をとる必要性が存しなかつたと主張するが、上記のような小作人保護の立法措置は、地主的土地所有を若干弱めはしても、有効に前記のような地主小作人の関係ないし地主的村落秩序を打破することは困難であり、現実的にも前記の如き制限措置のみによつて地主の土地引上げを有効に防止することはできない状態にあつたのであつて、このことからみても自創法による農地改革を必要としたことは明らかである。

(2) 原告は、本件農地買収処分は、その買収対価が憲法第二九条第三項にいう「正当な補償」に当らないから、同規定に違反し無効であると主張するが、買収対価が不当であるというのであれば自創法第一四条の対価増額の訴によつて救済を受けうるのであるから、対価の不当を理由として買収処分自体の効力を争うことは許されない。仮にこの点を別にしても、当時農地所有権は公共の福祉のために諸種の法的制限を加えられていたのであり、自創法所定の買収対価は、その所有につきかかる制限を受けている農地の自作収益を資本還元して定められた合理的価格であるから、これを憲法の上記規定にいう正当な補償に当らないということはできない。この点はすでに前記昭和二八年一二月二三日最高裁判所大法廷判決の判示するところであり、原告の主張は、ひつきよう近代以前の所有権絶対の思想に立脚した独自の見解にすぎない。

(3) 原告は自創法による農地買収、売渡は、地主の犠牲において小作人に利益を与える点において地主と小作人に対する不当な差別待遇であり、また小作人間においても平等な量の農地を売り渡すものでない点において不平等であるから、憲法第一四条の規定に違反すると主張する。しかし、同条に定める法の下の平等も、公共の福祉のためには制約を受けるものであり、またあらゆる場合に絶対の平等を要請するものではなく、合理的な差別を否定するものではないから、自創法の目的が前記のように農業生産力の発展と農村の民主化という公共の福祉の実現にあり、また買収対価も正当な補償にあたると認められる以上、たとえ結果として一方に実質的利益を受ける者が、他方に不利益を受ける者が生じたとしても、これをもつて同法に基づく農地の買収、売渡が憲法第一四条の規定に違反するということはできない。(東京高等裁判所昭和二九年一月二九日判決、行政事件裁判例集五巻一号四一頁参照)

第三証拠関係<省略>

理由

本件農地がもと原告の所有であつたこと、およびそれが原告主張の日に自創法第三条の規定に該当するものとして被告国に買収せられ、さらに同日同法の規定により原告主張の者らに売り渡されたことは当事者間に争いがない。そこで自創法の規定による本件農地の買収、売渡が果して原告の主張する如く憲法に違反する無効のものであるかどうかについて検討する。

一、原告はまず、自創法による農地の買収は、憲法第二九条第三項にいう財産権を公共のために用いる場合に該当しないから、同規定に違反し無効であるという。自創法による農地買収が自作農創設のための手段として採用されたものであり、かかる自作農の創設によつて耕作者の地位を安定し、その労働の成果を公正に亭受させ、もつてわが国における農業生産力の発展と農村における民主的傾向の促進を目的とするものであることは同法第一条の規定によつて明らかであるが、原告は、農業生産力の発展のためには農地買収による自作農創設というような強制的手段は必要でもなく、また適切ではないとし、また耕作者の地位の安定をはかるということは単に小作農という国民の一部階層のみの利益をはかることであつて公共すなわち国民全体のためということはできないし、自作農の創設と農村の民主化との間にもなんらの関係がないから、自創法の掲げる目的はいずれも同法による農地所有権の強制的剥奪を「公共のため」として正当づけるものではないと主張するものである。これによつてみると、原告は、「農業生産力の増進」や「農村における民主的傾向の増進」という目的自体が憲法第二九条第三項にいう「公共のため」に該当するものであることはあえてこれを争わず、ただこれらの目的を達成するためには特に自作農を創設するという措置は必要でもなく、また適切でもないと主張し、もつぱら自創法第一条に掲げる公益目的と同法に規定する強制的権利剥奪措置との間に必然的関連性のないことを攻撃するにとどまつているようにみえるので、当裁判所も、以下においてこの点についてのみ判断を示すにとどめる。

憲法第二九条第三項の規定により私有財産権の強制的剥奪が許容されるためには、単にその目的が右規定にいわゆる「公共のため」という概念に包摂されるようなものであるばかりでなく、かかる目的の実現のための手段として当該財産権の剥奪が必要であることが肯定されなければならないことはもとより当然のことである。けだし、非強制的手段より軽微な財産権制限の措置によつて容易かつ十分に同一目的を達成しうる場合にもなお財産権の強制的収用という如き強力な措置をとることが是認されるとはとうてい考えられないからである。しかしながら、右の如き必要性の有無については、自創法の如く、法律自体において一定の公共目的のためにある種の私有財産を強制的に取り上げることが一般的に必要であるとの判断の下にかかる強制的措置が定められた場合においては、かかる立法府の判断をいちおう尊重すべく、これを争う者において客観的資料に基づき右判断が著しく合理性を欠くことを論証しない限り、右の必要性の存在を否定することは許されないものと解するのが相当である。なんとなれば、この種の立法における必要性の判断は、必ずしも正確にとらえ難い社会的事実の認識および解釈と、一定の措置がもたらすであろう結果の予測とに基づいてなされるものであり、それはみる人により合理的な見解の相違を生ずることを免がれないような性質のものであるから、国民の代表機関であり、国の唯一の立法機関たる国会はこの点の判断について広い裁量権を与えられているものと考えるのが合理的であり、したがつて国会による事実認識ないし解釈が明らかに誤まつているとか、これに基づく必要性の判断が著しく合理性を欠き、とうてい正当な裁量権の行使を認めることができないようなものであることが証明される場合に限り、右国会の判断を否定することが許されると解すべきだからである。(このような解釈上の理論は、後出のように、財産権に対する規制立法が公共の福祉のための規制として憲法第二九条第二項の規定に違反するかどうかを判断する場合にも妥当するものである。)これを本件についてみるに、自創法制定の背後には、わが国農村における小作関係の実体に照らしてかかる小作関係の存在がわが国における農業生産力の増進を阻害する一因子をなしていると認められること、したがつて小作農を可及的に減少せしめ、これに代つて自作農を創設し、農業経営を自作農中心に改めることが今後における農業生産力発展の一要件であること、また農村における小作関係はその実体において近代的な賃貸借関係から遠く、そこに多くの封建的、身分的な支配服従の関係が事実として存在しており、それが農村における人的関係を近代的な自由かつ独立の人格者間の関係とすることに対する大きな障碍をなしていると考えられること、したがつて戦後における農村の急速な民主化という要請のためには、かかる小作関係を急速かつ広範に消滅させる必要があるという立法府の判断が存在することは、推察に難くないところである。そこには、自創法制定当時ないしはそれに至るまでの間におけるわが国の農業経営および農村社会の実情に対する一定の認識ないし解釈が前提されているのであつて、かかる認識ないし解釈が明らかに誤りであり、したがつてこれを前提とする上記の如き立法府の判断が合理性を欠くことが示されない限り、右の立法府の判断は尊重されなければならない。しかるに本件において、原告は、なんら客観的資料によつて右の如き誤りを指摘するところがない。まず農業生産力の増進の点について原告は、自作地であるか小作地であるかは当該農地の反当収量になんらの影響を及ぼすものではないと主張し、これを裏づける資料として原本の存在および成立に争いのない甲第四号証(農林省累年統計表)を提出し、これによれば農地改革の前後を通じて水稲の反当収量に格別の増大が認められず、若干の増加は主として農地に投入される化学肥料の質および量の向上に基づくものと考えられることからも、このことが明らかであると主張している。しかし、同号証と成立に争いのない乙第一号証から第三号証までの各一、二をあわせると、水稲の反当全国平均収量は被告の主張する如くであつて、年によつて若干の凹凸はあるにせよ、平均的にみれば昭和二三年以降においては明らかに増加の傾向を示していることが看取されるのである。したがつて、右増加の原因として原告主張の如き化学肥料の向上等の要素を考慮に入れたとしても、なお自作農の創設が収穫量の増加に好影響を与えなかつたとはいいきれない。のみならず、仮にこの点を原告に有利に解釈し、自作農の創設が結果的には農業生産力の増大に格別の効果を挙げえなかつたと認めるとしても、このことから直ちに農業生産力の増大のためには自作農の創設が必要であるとした国会の判断が著しく合理性を欠くものであると断ずることはできない。なんとなれば、この種の立法に含まれている立法府の事実判断や将来の結果の予測がもともと必ずしも正確を期し難いものであり、そこには常にある程度の過誤の可能性が蔵されていることはすでに述べたとおりであるから、右立法が所期の結果を生まなかつたからといつて、当然に立法府の事実認識や将来の結果の予測がすでに立法当時においても明らかに誤りであり、ないしは著しく不合理であつたということはできないからである。小作農が自作農化することによつていつそうの勤労意欲を燃やし、また農業経営資金の増加によつて経営の内容が改善され、これが個別農地の生産力を増大する結果を生ずると考えるのは常識的にもいちおう納得されるところであつて、かかる判断が明らかに誤りであり、農地の反当り収穫量を増加せしめるためには小作地を自作地化する必要は少しもないことが当時においてすでに客観的にも明らかであつたとするためには、上記証拠のほかにさらにこれを裏づけるに足る確実な根拠が提示されなければならない。しかるにかかる証拠はどこにも見出すことができないのであるから、原告の主張はひつきよう客観的な根拠を伴わない自己独自の見解を主張するにとどまるものとして排斥するのほかはない。

次に、農村の民主化の問題に関する原告の主張および立証をみるに、原告はもつぱら農村社会において地主と小作人との間に人的支配関係、れい属奉仕の関係はまつたく存在しなかつたと主張し、また農村における地主の多くは小面積の農地を所有するにすぎない微小地主であるから、これらの地主の所有農地を買収しても農村の民主化に格別の好影響をもたらすものではないと主張するにとどまり、その主張を裏づける客観的根拠については、なんらこれを提示するところがない(甲第六号証は、原告の上記主張を裏づけるものではない。)。むしろ農村における地主と小作人の関係が近代市民社会における自由人格者間の賃貸借関係と異なり、多分に封建的な要素をはらみ、法律形式上はともかく、その実質においては人的支配服従の関係が少なからず残存していたものであることはかねてから多くの論者の指摘するところであつたのであるから、立法者がこれらの指摘にかんがみ、農村の民主化のためには急速かつ広範な自作農の創設が必要であると判断したとしても、その判断にはなんら合理性に欠けるところがないというべきである。よつてこの点に関する原告の主張も理由がない。

なお原告は、農地の買収売渡は小作農の利益のみに奉仕するものであつて、国民全体の利益に奉仕するものではないから、公共のためということができないと主張するが、農地の買収売渡が農業生産力の増大と農村の民主化という公共の利益を目的とするものであることは前記のとおりであり、右の目的が憲法第二九条にいう「公共のため」にあたることは原告自身これを争つてはいないのである。そして右の目的のためにとられた措置が結果として国民の特定の層に不利益を与え、他の層に利益を与えることとなつても、そのために当該措置自体が「公共のため」のものでなくなるわけはないのであるから、原告の右主張も採用の限りでない。

二、次に原告は、本件農地買収の対価が憲法第二九条第三項にいう正当な補償にあたらないから、右買収は無効であると主張する。ところで被告はこれに対し、買収対価の不当については別に自創法第一四条に定める不服の訴による救済の途が開かれており、対価の当不当は買収処分の効力とはなんらの関係がないから、原告の右主張はそれ自体理由がないと主張するので、まずこの点について考えるに、被告の右主張は、自創法第一四条に定める不服の訴においては、同法第三条の規定により買収せられた農地につき定められた対価が憲法第二九条第三項にいう正当な補償の額に満たない場合にはその額まで増額すべきことも許されるという解釈を前提とするものであることが明らかである。

しかしながら、自創法第一四条の規定を農地買収の対価に関する同法第六条第三項の規定とあわせ読めば、買収対価に対する不服の訴は、行政庁が右第六条第三項の規定により認められた裁量権の範囲内において個別農地につき定めた買収対価に対し、その裁量権の行使の不当を理由として対価の増額を訴求することを許したにとどまりり、これを超えて、第六条第三項の買収対価の規定そのものが、憲法第二九条第三項にいう正当な補償の要件を満たさないことを理由として、正当な補償の額までの増額を訴求することまでもこれを認めたものと解することはできない。けだし、自創法は、右第六条第三項において定める買収対価をもつて憲法の定める正当な補償の要求を満たすものと考えていることは明らかであり、万一右規定が憲法に違反すると判断される場合をおもんばかつて、あらかじめ憲法の要求する正当な補償額まで対価の増額を訴求する途を開き、これによつて自創法による農地買収が全体的に違憲無効とされることのないような万全の手当を講じたものであると解することは、特にその趣旨が自創法の規定上から窺われない限り、正当な解釈の限界を超えるものといわざるをえないからである。

殊に、後述するように、自創法における農地買収対価の規定は、農地についての統制価格を基準としているが、かかる基本的な態度そのものが憲法に適合せず、全く別の起点から、補償額を定めなければならないということになれば、全国的に必要とされる買収対価の総額はきわめて尨大なものとなることは容易に予想されるところであつて、そうなれば当然に自創法における農地の買収売渡そのものの計画を全般的に練り直さなければならなくなることも考えられるのであるから、この点からみても、自創法の制定者が同法の定める買収対価の基準と全く別個の基準による額までの対価の増額を求める訴を許容する意図を有していたものとは考え難いのである。このようなわけで被告の上記主張はこれを採用することができない。よつて進んで本件農地買収の対価が憲法にいう正当な補償でないとする理由に関する原告の主張につき判断を加えることとする。

原告はまず、憲法にいう正当補償とは、少なくとも収用さるべき私有財産権がその内容において法律上なんらの制限を受けない状態の下において生ずべき自由市場におけるその取引価格を下るものであつてはならないと主張する。しかしながら、憲法第二九条第三項における正当な補償の規定は、公平の原則に照らし当該財産権の主体が収用に伴い収用時における合憲的な法律状態の下においてその財産権が適法かつ正当に有すべき経済的価値に相当する損失をこうむることに対してこれを填補するという意味を有するものであるから、例えばある物の所有権の内容に一定の法律上の規制ないし制限が存在し、かつ、その規制ないし制限が憲法に適合するものであれば、その物の所有権の収用に対する補償も、かかる法律上の制限を伴う所有権としてそれが有すべき経済的価値に見合うものであれば足り、かかる制限を伴わない完全円満な所有権としてそれが有すべき経済的価値に見合うものである必要は少しもない。このことは、右規定において補償を要求される財産権が、すでに同条第二項において公共の福祉に適合するように法律でその内容を定められることを予定されているものであることに照らしても明らかである。ところで農地所有権は自創法制定当時および本件農地買収の当時において、農地調整法その他の法令により、農地を耕作以外の目的に変更することを制限され小作地については小作契約の解除、解約を制限され、小作料も金納とされしかも一定の額に据え置かれ、また農地の売買価格すらも一定の基準によつて統制されていたのであり、したがつてこれらの法律上の規制ないし制限が憲法に違反しない限り、農地買収に対する正当な補償も農地所有権がかかる規制ないし制限の下において合法的に有すべき経済的価値に相当するものであれば足りるわけである。この結論に反する原告の上記主張は、憲法第二九条第三項の正当な解釈としてこれを採用することはできない。

原告はさらに、農地所有権に対して加えられた上記の如き法令による制限は、それ自体が憲法に違反し無効であるから、これを前提として農地買収に対する正当な補償額を論ずることはできないと主張する。そして何が故に右制限が憲法に違反するかについては、それが一方的に農地所有者の権利に制限を加え、実質的にその内容を無価値なものとし、これによる利益をすべて耕作者に与えるものであるから、それ自体公共の福祉に適合せず、憲法第二九条第三項に違反するのみならず、地主と小作人との間に不当な差別待遇を認めたものであるから憲法第一四条にも違反すると主張する。しかし、憲法第二九条第二項の規定により立法上財産権の内容に対してある種の制限が加えられた場合には、常にかかる制限を受ける財産権の主体が一方的に不利益を受け、他面においてこれと反対の利害関係にある者がその反射としてある種の利益を受けることを免がれないのであつて、憲法はそれが公共の福祉のためになされるものである以上これを容認しているのであるから、農地所有権に対して一方的な制限が加えられ、耕作者がこれによつて利益を得ることとなつても、そのことのために当然これが憲法第二九条第二項や第一四条の規定に違反するということができないのは明らかである。それが憲法に違反するというためには、これらの制限的立法の目的が公共の福祉とは無関係のものであるか、あるいはかかる目的のために相当な立法であるとはとうてい考えられないような明白な不合理性をもつものであることを、具体的に主張し、かつ、立証しなければならない。しかるに本件において原告は、この点につき、地主による土地引上げに対する制限がきわめて強度で事実上禁止に近いものであるとか、金納小作料や農地の公定価格が一般物価に比し著しく低い額に据え置かれていることを主張しているが、地主による土地引上げに対する制限が強度であるということは、もとより当然にはかかる制限立法を違憲無効とするものでないし、金納小作料や農地公定価格が一般物価に比し著しく低く定められているという点も、これらの立法が農地耕作者の保護等の公共の福祉を目的とするものであることを考慮するとき、(かかる目的が公共の福祉にあたらないと解すべき根拠はどこにもない。)それだけでは右立法を違憲無効とするに足らずその他にこれらの立法を違憲と解すべき根拠についての具体的な主張立証はなんらなされていないのである。よつて原告の右主張は理由がない。原告はさらに、仮に右の制限立法が公共のためといいうるとしても、少なくともそれは農地所有権の一部を公共のために使用したものにほかならないから、これに対して正当な補償が支払われなければならないにもかかわらず、なんらかかる補償がなされていないから無効であると主張するが、上記立法は単に一般的に農地所有権の内容やその行使に対して法律上の制限を加えたにとどまり、(既存の所有権の内容について新たにかかる制限を加えることも、公共の福祉のためのものである限り、もとより可能である。)所有者の意思に反して農地の所有権を奪つたり、またこれに使用権を設定したり、あるいは特定の農地についてある種の負担ないしは制限を課したりしたものではないから、これをもつて憲法第二九条第三項にいう公共のために「用いた」ということはできず、したがつて右主張も理由がない。

ところで自創法第六条第三項に定める農地買収対価の基準は、被告の主張するように、農地の自作収益を資本還元して定められたものであり(最高裁判所昭和二八年一二月二三日大法廷判決参照)これは農地調整法第六条の二(昭和二〇年法律第六四号の改正による)に定める農地の公定価格に合致するものである。そして右の算定にあたつては、原告も指摘するように、米の統制価格を基礎としている。そこでかかる算定方法により定められた農地の買収対価が上記のような法令による制限を伴う農地が適法かつ正当に有すべき経済的価値を填補するに足るものであるかどうかの点についての原告の主張をみるに、原告は、まず、右計算の基礎とせられた米の統制価格が不当に低く定められており、またかかる統制価格はほんらい一時的なものであるから、これを基礎として自作収益を算出することは不当であり、当時一般的現象であつた農家の農作物の闇売りによる収益を全然考慮に入れていない点においても不当であると主張する。しかし米の統制価格の定めが公共の福祉のための規制立法として許される範囲を超えた著しく不合理な立法であるとの点については、原告はそれが一般物価に比し著しく低いという点以外にはその具体的根拠についてなんらの主張も立証もしておらず、米の統制価格が一般物価に比し著しく低いということは、もとより当然にはその定めを違憲無効とするものでないから、農地が適法かつ正当に有すべき経済的価値の算定に当つてこれを基礎とすることを不当とすることはできない。また統制価格が永続的なものでないとしても、そのためにこれを基礎とすることができないとする理由はないし、闇売による収益を考慮に入れないことも、農地が適法に有すべき経済的価値を算定するについてはもとより当然のことというべきである。もつとも、米の統制価格はその後変改せられているから、変改後においては農地買収対価も新たな統制米価を基準として算出さるべきであるとの議論があるかもしれないが、自創法はもともと同法所定の要件に該当する農地をすべて可及的に速やかに買収すべきことを要請しており、かかる農地はすでに自創法制定の当初から買収さるべき運命を荷つていたものというべきものであるから農地が適法かつ正当に有すべき経済的価値を算定するに当つて自創法制定当時の米価を基準とし、その後の米価の変更を考慮に入れなかつたことを不合理とするにはあたらない。もしそうでないとすると、広範かつ大量の買収を行なわなければならない関係上技術的に必然的に生ずべき農地買収の遅延によつて買収対価が異なり、被買収者相互間に不公平を生じ、かえつて不合理な結果をまねくこととなるのである。それ故自創法制定当時を基準として定められた対価をそのまま適用することを不当とすることはできない。次に原告は、自創法第六条第三項が田畑のそれぞれの賃貸価格の四〇倍ないし四八倍の価格を買収対価と定めたことをとらえ、賃貸価格そのものが物価の変動に伴いこれに均衡した額に改訂せらるべきであるのにかかる改訂を施されないままの賃貸価格を基準としたのが不当であると攻撃する。この原告の主張の真意は、農地賃貸価格そのものが物価の騰貴にスライドして改訂せられていないので、これに一定の倍率を乗じて算出された買収対価も結果として他の一般物価と著しく不均衡となつていることを指摘するにあると考えられるが、自創法の右規定は、農地の自作収益を資本還元して得られた額と当時の農地の平均賃貸価格とを比較し、前者の後者に対する倍数を算出して定められたものであるから、(前掲最高裁判所判決参照)原告の主張はひつきよう右自作収益計算の基礎となつた統制米価が一般物価に比し著しく低廉であることを攻撃するに帰するものというべく、右米価が一般物価にくらべて著しく低いことや、物価の変動に応じてスライドされていないという事実だけをとらえてこれを基礎とする買収対価の算定が不当であるとすることができないことはすでに述べたとおりであるから、原告の右主張も理由がない。原告はさらに、物の価格はその生産費を下ることはありえないから、農地についても山林を購入しこれを開墾して農地とするに要する費額よりも低い価格は農地の価格といいえないと主張するが、右はなんらの合理的根拠のない議論であつて、採用の限りでない。要するに、原告の上記主張はいずれも、自創法に定める農地買収対価が一般物価に比し著しく低廉であるから不当であるとしこれを攻撃するものであり、農地買収対価が一般物価に比し著しく低いことはあえて原告の立証をまつまでもなく、当裁判所にも顕著な事実としてこれを認めるにやぶさかではないが、この一事をもつて右対価を正当な補償にあらずとなし難いことは上述したところであり、これを肯定するためには、前叙の如き自創法における買収対価の算定の方法が農地所有権の適法かつ正当に有すべき経済的価値を算定する方法として相当でないことをさらに具体的根拠に立つて論証しなければならないのに、かかる論証は結局なされていないのである。

以上の次第で、自創法第六条第三項の規定により定められた本件農地買収対価が正当な補償でないとする原告の主張は、結局理由がない。

三、最後に原告の憲法第一四条違反の主張について考えるに、原告は、自創法による農地の買収、売渡は、一方的に地主に不利益を与え、小作農に利益を与えるものであるから不当な差別待遇であると主張するが、およそ法律において公共の福祉のために財産権の内容やその行使につき制限を加えたり、あるいは公共のためある種の財産権を収用し、これを一定の者に与える場合は、常に、あるいは多くの場合に、これによつて利益を得る者と不利益を受ける者とを生ずることをまぬかれないのであつて、かかる結果を生ずることの故をもつてこれを憲法第一四条に違反し右両者の間に不当な差別待遇を生ずるものとなし難いことはすでに説示したとおりであるから、原告の右主張は採用することができない。また原告は自創法による農地の売渡が小作農に対して平等に行われることとされていないから不当な差別待遇であると主張するが、同法における農地売渡の相手方についての規定は、自作農の創設およびこれによる農業生産力の増大の見地から定められたものであることはその規定自体からも窺われるところであり、なんらの合理的理由なくして特定の小作農のみに利益を与え、他の特定の小作農にはこれを与えないこととしたものとはとうてい認め難いから、原告の右主張も理由がない。

以上説示のとおり、本件農地の買収および売渡の無効原因として原告の主張するところはすべて理由がないから、右各処分の無効確認を求める原告の本訴請求は失当としてこれを棄却すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 中村治朗 小中信幸 時岡泰)

(別紙目録および別表(一)、(二)省略)

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